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なんでBUROKI(ブロキ)なの?からデザイナーになった現在までのお話
2019.01.23.
どうも・・薬品みたいな味のする食べ物が苦手なブロキです。
ブロキについてのaboutページに少しだけ自己紹介文を書かせてもらっているのですが、
どうせなら生い立ちから現在、そしてこれからのことを書いてみよう!と思ったので、長くなりそうですが書いてみることにしました。まず僕のことを知りたいと思ってくださったた方や、お時間のある方はお付き合いくださいませ。
まずは簡単な自己紹介と「ブロキ」の名前の由来

普段デザイナーとしては「BUROKI(ブロキ)」を名乗っていますが、本名は黒木 大輔(くろきだいすけ)と申します。現在の年齢は30代後半です(具体的な年齢を書くと誕生日を迎えると変更しないといけないので書きません 笑)。7人兄弟の次男で、姉、兄、弟、妹全部います。デザインの制作分野としてはwebサイト・ホームページ制作と名刺やロゴ、チラシ、ポスターなどのグラフィックデザインを主としていて、トータルでデザインできる強みを生かし、デザイン面から良くしていくブランディングなどを得意としています。
BUROKIの由来
BUROKIという名前の由来ですが、これは2012年ごろに別のコミュニティサイトでブログをやっていたんですね。そのときに何かいいペンネームないかなと考えていたのですが、黒木とブログを掛け合わせてブロキなんていいんじゃないか?という発想から生まれました・・(笑)。
当初はブロ木とか風呂木とか書いてたのですが最終的にカタカナでブロキで落ち着き、それが周囲に浸透しすぎてブログをやめた今も個人のプロジェクトネームとして名乗るようになりました。
ブロキ誕生から幼少期
大阪生まれの大阪育ちで、大阪市の右下にある平野区・長吉長原西にて生まれました。
エレベーターなしの市営団地の5階に住んでいて、80年代はバブル絶頂期で世間はフィーバーしていたはずですが、僕の家庭はわけあってそんな雰囲気は一切なく・・散髪に行くお金がなく髪の毛は伸ばしっぱなしだったり、ずっとお風呂に入れなかったり(なぜか風呂場に洗濯機が置いてあった時期も・・ 笑)で、決して裕福ではない家庭で育ちました。
子供の頃に描いた「未来の電話」がスマホっぽかった
そんな暮らしのなかでも、紙と鉛筆があれば遊ぶことに困らないような子供でした。小さい頃から漫画や絵を描いていたからか、絵画コンクールではたまに賞をもらっていました。
動物園の写生会では画用紙いっぱいに描いた象の絵が先生にすごく気に入られ、僕の絵だけ返ってこなかったりもしました(ちょっと自慢)。中でも記憶にあるのは「未来の電話コンクール」。僕は電話に目覚まし時計やテレビ、カセットプレーヤー、ゲームなど、なんでもできる電話、今でいうスマホみたいな絵を描いたんです。そしたらなんと優秀賞を受賞(笑)。もう手元にはないのですが、今になってもう一度見てみたい絵です。
逆に絵で恥ずかしい思いをしたことも
幼稚園児のとき、運動会で披露するために「おさかな体操」というお遊戯を練習していました。ある日、本番に向けて頭につける魚の絵を描こうとなり、皆思い思いの好きな魚の絵を描いていました。
普通魚の絵を描くとなると、横向きの魚の絵を描くじゃないですか・・?でも僕はなぜか「正面につけるんやったら魚も正面向いてなかったらおかしいやろ」という考えから正面から見た魚の絵を描いたんです・・(笑)
しかも、正面からの魚の絵なんて描いていたのは僕だけでした(笑)。パッと見て魚なのかわからない、正面から見た魚の顔だけの絵・・先生には笑われるし親は呆れてたし、本番の運動会めちゃくちゃ恥ずかしかったことを覚えています・・。
小学校4年の一学期のある日、突然の転校(笑)
皆さんは転校した経験はありますか?僕は一度だけあります。
忘れもしない小学校4年生の一学期。朝から先生が急用で職員室に呼び出され、そのときの授業は国語だったのですが、急遽ポエムの書き取りになっていました。
そしてその授業が終盤になろうとしたとき、先生が急いで教室に戻ってきて開口一番にこう言ったんです。
「黒木くん、転校です!」と。
はじめ聞いたときはまったく意味がわかりませんでした・・(笑)。
当時の僕の転校のイメージは1ヶ月くらい前もって皆に告知し、転校当日は親が教室に来てくれてクラスの皆にお礼の印として鉛筆やノートを配る。これまで転校していった子たちはそうしていましたし、僕もそんな風に思っていました。
しかし僕は事前告知なしでいきなりの転校で、教室にいた皆は「え!?なんでクロちゃん転校するん!?」って驚いて戸惑ってるし、全然イメージと違っていて・・何より皆にノートとか配れなかったことが恥ずかしかった(笑)!そんな転校経験で、その日のうちに両親が離婚し、母親と兄弟全員、母親の実家に移り住むことになりました。
母親の実家に移り住んだものの特に生活は裕福になるわけでもなく、長屋の狭い一室に大勢で暮らしていました。
よく「川の字になって寝る」とか言うじゃないですか?僕の家庭はそんな生易しいものじゃなかったですから。狭い部屋で大勢の兄弟や家族が寝るので川の字にもなれず僕一人、皆の下で足を向けられて寝るしかなく、いわば川の字の下線になって寝ていました(笑)。でもそんな一人部屋のない環境で育ったからか、今でも兄弟全員仲は良いです。
長吉西から瓜破西へ・・人見知りがはじまる
転校といっても大阪から出たわけではなく、むしろ平野区からも出ていません(笑)。でも子供にとって住み慣れた環境から違う環境に身を投じるのはすごく怖いこと。転校先の学校への登校初日、恐怖しかありませんでした・・。初日の登校時は母親が付き添ってくれていましたが、なんせ周りは知らない子たちばかり。
本当に恐怖で、話せないし泣きそうになりながら早く帰りたかった記憶があります。
幸い転校先のクラスの同級生はいい子が多かったので、なんとか僕と仲良くしようと話しかけてくれたり、遊びに誘ってくれたりしてくれました。その甲斐あってか転校後3ヶ月くらいで徐々に打ち解けられるようになりました・・(それでも3ヶ月かかるところが僕らしい)。でもこの時から20代の終わりくらいまで「かなりの人見知り」という厄介なコンプレックスを抱えてしまいました・・。
いまはだいぶ人見知りも落ち着きましたが、それでも社交的とまではいきませんね。大人になってもなかなか克服できるものではないなと改めて思います。
小学校高学年から「絵がうまい奴」になった
小学校高学年になっても絵を描くことは好きで、4年のときのクラブ活動は漫画クラブに入ったり趣味でも4コマ漫画を描いたりしていました。休み時間にも絵を描いていたのでそれをクラスの子らが気づき、だんだんと「絵がうまい奴」という印象がついてきました。
6年生の時、クラスの卒業制作は「宇宙船地球号」というキャラクターの絵をタイルで分割してそれぞれパーツとして1人1枚絵を描いて、組み合わせてひとつの大きな絵にするというものでしたが、キャラクターの肝心な顔のパーツ部分をなんと僕が描くことになりました。今も小学校の廊下に飾られているはずです(笑)。
高校3年間続けた朝刊新聞配達
中学時代はサッカー部に所属し3年間過ごしたのですが、当時親から言われていたのは「お小遣いあげるのは中学まで。高校になったらバイトして自分で稼ぐこと」。高校進学と同時にアルバイトをしなければいけない環境でした。なので中学卒業時期にそろそろバイトを探そうかなと思っていたら、ある日「新聞配達の連絡しといたぞ」とおばあちゃんから言われ、なぜか中学を卒業する前から朝刊の新聞配達をすることになりました(笑)。
朝刊配達は月に1日しか休みがなく、朝は3時起きです・・。
一度3時にあわせた目覚ましで起きるのですが、もう眠くて眠くて二度寝してしまい、10分後くらいに新聞屋のおばちゃんからかかってくる電話で起こしてもらって配達してました。配達地域は団地を担当していたのですが、朝刊は団地の下にある集合ポストではなく、それぞれの部屋の玄関ポストに入れることになっていたので毎朝階段を駆け上がってました(笑)。夏はセミがよくドアにとまっていて新聞をポストに入れると飛び回ったり、暑い夏も寒い冬も、雨の日や風の日もお構いなしで走り回ったり・・懐かしいです。高校でもサッカーは続けていまして、母が亡くなった高校2年生の1年間を除けば2年間はサッカー部に在籍していました。
朝刊配達して学校へ行って授業を受けて、夕方から部活動して、夜更かしせず早く寝る・・いま思えば高校時代が1番真面目に頑張ってた時期かもしれません(笑)。
卒業後、空白の20代前半
高校卒業後の選択肢は「家を出る」しかなかったので実家近くのアパートで兄弟と一緒に住みはじめました。この頃から数年間は何も考えてなかったと思います。ただバイトして暮らしていただけ・・典型的なフリーターです。やりたいことが何なのかわからなかった。わからないから探しようもなく、漠然とした将来への不安だけが頭の奥にありフラフラしていました。親戚のおっちゃんがフラフラしていた僕を見かねて「ウチで働くか?」と誘ってくださったのも断り、さらにフラフラ・・
経験も特技も学歴もなかったのでテレアポの面接も受からないし、コンビニのローソンやファミマの面接でさえ落ちました(笑)。
僕の場合、本格的にデザインを勉強しはじめたのは25歳になった頃からなんです。
24歳のときに買ったPCで毎日インターネットをしているときに「PCにかかわる仕事(デスクワークってかっこいいやん?)をしてみたい!」と思ったのがきっかけです。PCといえばワード・エクセルか?と考え、本屋で買った参考書でソフト操作の勉強をしていました。当時は事務員になりたかったんでしょうね(笑)。
しかし事務員募集の求人に応募してもまったく受からない・・男性やし未経験やし厳しいかなーと思いながら、年齢的にも将来にかなり悩みはじめていた時期でした。なぜか途中で舞台の照明スタッフに応募したり(もちろん落ちる 笑)、迷走していました。この頃ブラインドタッチとwordの練習も兼ねて毎日日記を書いていたんですが、「やりたいことが見つからない」悩みばかりを綴っていて少し悲しいですが、この頃の僕に「お前、やりたいこと見つかって、やりたいことやれてるぞ!」って言ってあげたいですね(笑)。
いい感じのwebサイトを見た瞬間、「これや!」
何のwebサイトだったかは忘れてしまったのですが、ある日インターネットをしていると某webサイトのデザインがすごく自分好みでフォントも初めて見たような洗礼された日本語フォントで、ものすごく魅了されたんです。そのときに「これや!こういうホームページを俺もつくれるようになりたい、僕はここにいかないといけない!」って思ったんですね。
そこからワードとエクセルの勉強をやめ、ホームページを制作するのに必要なスキルを身につけようとロゴやイラストなどをつくるソフトである「Illustrator(イラストレーター)」と写真編集ソフトの「Photoshop(ショトショップ)」の勉強をはじめました。ですが、初心者すぎて行き詰まりまくりで参考書を読んでもまったくデザインができないし、ホームページを構築するために覚えないといけないコードのhtmlすら知らないからつくれない・・なので学校に通ってwebデザインを学ぶことにしました。
昼間はアルバイトをしながら夜は学校に通い、休みの日は朝から晩まで自分のホームページや面接用の作品をつくる日々・・お金もないから本屋で参考書を立ち読みしてできるだけ記憶して家に帰って記憶した技術を実践して自分のものにする・・そんな日々が1年くらい続きました。この頃はアルバイト先の人間関係が本当に良くなくて、思い出したくないくらい辛い時期でした・・。僕の中では「暗黒の2007年」と呼んでいます(笑)。
そして26歳になったばかりの2008年1月、紆余曲折ありながらもようやくweb制作スタッフとして入社できたのが今の会社なんです。
web制作スタッフで入ったのに一人広告代理店みたいになった
いま勤めている会社に入社したのが2008年の1月。
当時ECサイトをこれから盛り上げていこうとしていたようで、僕もはじめはECサイトの商品ページ制作をしていました。
しかし途中からフリーマガジンのホームページリニューアルから月次更新を任されるようになり、社長の知り合いのケーキ屋のサイトや人材派遣のサイトなどの制作も担当することになっていき、他のスタッフと違って一人だけ違う制作を仕事にするようになっていきました。
入社当初はwebデザインのスキルしか持っていませんでしたが、雑誌の広告をつくることになったり名刺をデザインしたりロゴをデザインしたりと、webだけでなくグラフィックデザインも教えてくれる人がいない中で独学で勉強しながらできるようになっていき、デザインできる領域が広がっていきました。
そして2014年にひとつの転機が訪れました。
それは「DIY FACTORY」という実店舗ができたことです。
自社ブランドの存在がデザインの考え方をレベルアップさせてくれた

このロゴは僕がデザインしました。
DIYのスタンダードになるようなシンプルで力強いロゴ。2014年に店舗がオープンしましたが、店舗というよりブランドを意識して制作をしていました。
webサイトを筆頭にパンフレットや名刺・ショップカード、焼印、トーバッグやTシャツに至るまで統一感を意識してデザインし、DIY FACTORYを印象づけていく。そのためにはどんなデザインがいいのか?そもそもDIYのデザインは何なのか?ブランドとして個性を出していくにはどうすればいいのか・・日々いろんなことを考えてデザイン面からブランドの価値向上に貢献しようとしていました。
そのためにもっとデザインに集中する必要があると思い、社内にデザインチームをつくって後輩デザイナーを採用し、社内全体の制作物に責任を持つマスターデザイナーとして制作や監修、チームビルディングも担っていました。リーダーでありながらチームメンバーと同じ目線でDIY FACTORYや会社を盛り上げようとしていたあの時間は、今でも僕の宝物です。
制作して納品して終わりではないインハウスデザイナーという環境だったからこそ、本当の意味での「ブランディング」という考え方に触れることができましたし、ベンチャー企業特有の情報への感度の高いメンバーに囲まれながら「デザインを育てる」という経験ができたことは感謝しかありません。
そして現在、デザインからのブランディング提案が自分の強みになった
新しく何かをはじめるとき、必ず必要になる「デザイン」。
ロゴ、名刺、ショップカード、パンフレット、フライヤー、webサイト、パッケージ、グッズなど、制作物は多岐に渡ります。僕はインハウスデザイナーとしてすべての媒体の制作経験を持てましたし、デザインに対してのフィードバックをダイレクトに受けながら試行錯誤を繰り返し、デザインも考え方もブラッシュアップしていくこともでき、スキルもかなり向上しました。
対象の本質を落とし込んだ良いデザインをつくることはとても重要で、さらにすべての媒体で同じように表現することで統一された世界観を生み出すことができ、見る人の視認性を高め、一貫性のある体験を生み出しながらブランドとして成長していく。僕のやっていきたいことはそこにあります。
依頼してくださった人と同じ目線で一緒に考えて、同じように悩み、意見を出しあってまずは問題を洗い出し、その問題を解決するための良いデザインを一緒につくって、つくるだけではなく育てていきたい。デザインに正解はありませんが、僕はデザインは問題解決のためのもので、ブランドはより良く育てていくものだと思っています。
2019年5月よりフリーランスとして活動します。

20代前半まで何をやればいいのかわからず、悩んでばかりいた僕が自分が得意だったことの延長上で好きなことを見つけ、誰かの事業やブランドにデザインから貢献することができる・・こんなに幸せなことはありません。デザインに助けられ、救われてここまでやってきました。デザインすることが本当に大好きで、目に見える形で関わったものが良くなって、周りの人がワクワクしたり笑顔になることにやり甲斐を感じています。
そしてこの経験をもっと多くの人のために生かしたい、デザインを必要としている人、デザインに悩んでいる人たちの少しでも力になりたい・・そう思うようになり一度きりの人生、約11年勤めた会社を退社し、フリーランスとして活動・チャレンジすることを決めました。この文章を読んでくださったあなたと、どんな形であれつながれることを楽しみにしています。
長い文章になってしまって申し訳ございません・・
まだまだ至らない部分はたくさんあると思いますが、これからもブロキを、BUROKI designをどうぞよろしくお願いいたします!
はじめましてBUROKIです。
ベンチャー企業にて11年間webやグラフィックデザインとブランディング経験を経て、2019年5月よりフリーランスデザイナーになりました。完全独学でフリーランスになった異色の経歴の持ち主だと思います(笑)
制作実績やインハウスデザイナーのことなど日々更新しています。デザイン制作のご依頼やお問い合わせなども受け付けてますので、なんでもお気軽にご相談ください。
ベンチャー企業でマスターデザイナーとして働いた後、フリーランスになりました。制作実績やインハウスデザイナーのことなど日々更新しています。制作のご依頼なども受け付けてますので、なんでもお気軽にご相談ください。
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